あえて愛と呼びたい

Posted on 2016年5月5日

 

このあいだ、ニコニコ超会議に行った。
前々から行きたかったのだけれど、なかなかタイミングが合わず、初参加。目当ての一つは初音ミク×中村獅童による超歌舞伎。2009年から始まって、一部で盛り上がりを見せていた初音ミクのライブと歌舞伎のコラボ公演だ。

初音ミクのライブはいろんな意味で興味深くて、以前からけっこう注視していた。ディラッドスクリーン(透明な特殊スクリーン)に高精細プロジェクターを使って初音ミクの姿を投影する例のあれだ。

ちなみに、よくニュース記事で「初音ミクの3Dホログラムライブ!」的な見出しを見るのだけれど、たぶん間違っていて、あくまでもホログラムっぽく見えるように工夫した擬似ホログラムなんだと思う。Perfumeのライブも方式が違うけれど、本物のホログラムではなくて、ペッパーズゴーストを使った擬似ホログラムだろう。初めて記事を見たときに「ホログラムできるようになったとか世の中ぱない」と無駄に期待してしまった。

とにかく、今回はその擬似ホログラムの動きに息を合わせる形で中村獅童さんが歌舞伎を演じるらしく、デジタル感満載のライブと伝統芸能のコラボとして話題になっていた。かくいうぼくも4-5年くらい前から初音ミクとそれを取り巻くメディアミックス、盛り上がりに強い関心を抱いていた。そういう思いもあり、「とうとう、目の前で目撃できる!」とかなり興奮気味でイベントスペースに行った。

残念ながらものすごい人で整理券は取れなかったけれど、二階の自由席で観劇することができた。ただ、ディラッドスクリーンを横からみるような席だったので、投影される初音ミクの見え方はかなり厳しい感じだった。透過も激しく、プロジェクターの光が強かったため、初音ミクの姿がけっこうかすんで見えてしまった。このあたりは現状のディラッドボード方式の擬似ホログラムの限界なのかもしれない。というか、座席の限界か。いつか、本当のホログラムライブやってほしいです。

映像の見え方は厳しかったけれど、それでも初音ミクの舞の動きは、指先に至るまでとても細かく演技がつけられていて、獅童さんの舞との息もピッタシですごかった。

また、獅童さんや初音ミクの見栄に応じて、観客が「萬屋!(獅童さんの屋号)」、「初音屋!」と屋号を叫んでいた。舞台と客席の一体感がすごく強かった。歌舞伎のフォーマット、すごい。

そして、その副次効果として初音ミクへの感情移入が促進される感じがした。上演後の挨拶の時も獅童さんは、ちゃんと初音ミクが存在するかのように振舞っていて、会場全体で一つの幻想を共有するような一体感が感じられた。こういう参加型の幻想共有が擬人化や感情移入をさらに加速させるのだろう。フェスとか。Houxo QueさんとSenseless drawing botとのライブペイントバトルも類似した構造かもしれない。

音声合成/DTMソフトウェア「初音ミク」が発売されて11年。ひとつのキャラクタァがユーザーの手により、ここまで大きく展開されるに至った経緯を考えると、とても感慨深い(べつに開発者でもユーザーでもないのだけれど)。

何かを表現したい、空気を吸うのと同じくらい当たり前に備わっている、表現せざるをえない衝動って、たぶんきっとあるんだろう。そういう衝動に突き動かされる人の姿は第三者からしたら、「なんでそんな大変なことしてるの?」と見えるのかもしれない。けれど、当人にとっては努力してるつもりもなく、ただ湧き上がる本能に従って動いているだけだから、苦しくもあると同時に楽しくもあるんじゃないかな。そして、そういう衝動によってある種の文化が形成されていくのだと思う。

抑えがたい表現への衝動、「ついついやってしまって!」という思いが初音ミクを介して発露される。それに触発された別の人がまた何かを表現する。クリエイティビティの連鎖が続いていく。並行して、その連鎖を抑制しないよう、著作権を独占せず、できるだけオープンなプラットフォームやガイドラインを整備する。今日の初音ミクはそういう、数多のクリエイティビティに対する肯定感によって形づくられれている気がする。初音ミクにはそれだけクリエイティビティにおける肯定感が詰まっている。

お金になるからね、と冷めた目で見ることもできるけれど、ここはあえて言いたくなる。「愛だなあ」と。そして、そういう初音ミク現象をリアルタイムに目の当たりにできることは、とても幸福なことだと思う。

一消費者としてだけでなく、人々が何かに感情移入したり、(擬似)社会的な関係性を求める仕組みを知りたいぼくにとっては極めて興味深い現象だ。初音ミクがどんな展開をしていくのか、今後も注意深く見守っていきたい。