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Posted on 2011年10月17日

渋谷SUNDAY ISSUEにて昨日まで開催されていた谷口真人さんの個展「アニメ」を拝見した。とっ散らかっているかもしれないけれど、感想、考えをつらつらと。

そこには鏡に描かれた儚げな少女と、鏡の前にあるアクリルに少女を象るように強烈に塗りつけられた絵具がひとつになった作品があった。
それは人が想い描く理想(=少女)と、その理想には辿り着けないという突きつけられた現実(=塗りつけられた絵具)が見事なバランスで表現されたものだとぼくは感じた。それと、同時にぼくはこれら作品群を見て、九相詩絵巻を思い出した。
九相詩絵巻は美しい女の死体が時間とともに醜く朽ち果てていく様を表した江戸時代の絵巻だ。ぼくらの都市では人の死体を見る事はまずないが、江戸時 代では少し野を歩けば死体が転がっていたらしい。この絵巻のような光景も今と比べれば珍しいものではなかったのかもしれない。今と違って日常に近いところに「死」というものを強烈に感じさせるものがあったのだろう。

養老孟司さんは「死の壁」にて現代社会は死を遠ざけるだけではなく、人間の生理をも遠ざけていると言っていた。水洗トイレ、棺を運び出せない窮屈な公営団地。

それらは生きていく上で不可欠な「生理」を感じさせない様に作られたものと言える。そして、アニメの少女キャラクターは、まさにそのような人の生理を徹底的に排除し、綺麗な物だけを見たいという欲望を結晶化した1つのシンボルだろう。

年をとらず
汗臭さや肌の皺やシミもない偶像。
ぼくらの頭の中にのみ存在を許された理想の雛形。

それがアニメの少女キャラクタの本質だ。
ソーシャルネットワークが台頭し、直接会う事がなくとも容易にコミュニケーションが取れるようになった昨今、人の生理はますます忘れられるようになった。それに伴い、頭の中にのみ存在していたキャラクタが個人を代弁するかの様な錯覚がしばしば起きているような気がする。それこそ、アバターのように。

しかし、鏡を覗きこめばそこには嫌でも生理を感じさせる自分の顔が立ちはだかる。自分の意識の理想、鏡の奥底には決して辿り着けない。

その一見絶望的にも思える現実と、けれど人の生理こそが本質であるというもう一方の現実。死や生理を徹底的に排除してきた社会に生きているからこそ生じるの であろう、その2つの相反する現実の衝突を感じさせる谷口さんの作品は、社会、個々人に対する強烈なアンチテーゼのようにぼくには思えた。

鏡の向こうにたたずむ儚げな少女の眼差し。
その視線と鑑賞者の視線が直接交わることは叶わない。

その作品にぼくは強い衝撃と感銘を受けたのだ。

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